マルコ1章40~45節
「めぐみ」が 水の流れる小川であるとすれば、
「あわれみ」は 水の湧き出る泉である。
「めぐみ」が 恩恵を施す神の開いた手であるとすれば、
「あわれみ」は 愛にあふれた神の心である
マルコ1章21~34節
イエス・キリストは、しもべとして、
朝から晩まで忙しい毎日を送られた。
私たちも、与えられた時間を大切にしたい
ヨシュア14章6~14節
カレブの信仰の特徴は、
①勇気②忍耐③挑戦である
マルコ1章14~20節
イエス・キリストは、”普通”の人々を愛し、
ご自身の愛をもって、私たちを招いてくださる
マルコ1章12節
イエス・キリストは、サタンの誘惑に、
どのようにして勝利を得られたのであろうか。
マルコ1章12節
イエス・キリストは、いつサタンより、
誘惑を受けられたのだろうか
マルコ1章1~11節
マルコの描くしもべなるイエス・キリストは、
まことの神であることが、証言されている。
マルコ1章
マルコは、イエス・キリストを
”僕(しもべ)”として紹介している。
キリストは、仕えられるためではなく、
仕えるために来られた方である
マルコ1章
マルコは、主に従うことに躓いたが、
神のめぐみにより、役に立つ者へと変えられた。
私たちが今に至るのは、
マルコに注がれた神のめぐみと変わらない
へブル13章9-14節
キリストは、宿営の外で、
十字架に架けられた。
私たちも、この世が示す価値観・人生観の外に出、
更にこの世に遣わされて、
キリストが示す生き方を、身を以て証していきたい
使徒の働き2章
ペンテコステ(五旬節)」とは、
イエス・キリスト復活の日から数えて、
50日後に聖霊なる神が、
天から地上に下られた歴史的な日。
それ以降、現在に至るまで、
聖霊は、力強く福音宣教を押し進めておられる。
出エジプト2章
偉大な人物の背後には、
信仰の母の存在がある
へブル12章18-24節
私たちは、
時間的に”接近”している
永遠の場所に向かって、
歩み続けたい。
へブル12章15-17節
私たちは、一時的な快楽・満足のために、
エサウのように神の子として祝福された特権
を軽視してはならない。
へブル12章12-14節
私たちは、この世の世界観・価値観から、
常に聖書の教えるそれを選択する意志を
選択せねばならない。
使徒の働き1章1-3節
復活のキリストは、
絶望と恐れに沈む者、疑う者、
強硬に反対する者に、
ご自身を現される
使徒の働き1章1-3節
復活のキリストは、
ご自身を愛する者、悲しみ・後悔に沈む者、
困惑しつつもなお求め続ける者に、
ご自身を現される
ヨハネ14章
”イエス・キリストの復活こそ、
人間不可避の事実「罪」と「死」の問題に、
決定的な解決を与える歴史的事実である”
ルカ23章32-節
”十字架上の罪人は、
キリストが神であること、
自分自身が天国に相応しくないことを正しく理解した。
人は知識で永遠のいのちを獲得するのではなく、
神のめぐみと神への正直な信頼で救われる”
マタイ21章1-9節
キリストは、子ろばに乗って、
エルサレムに入城された。
ここに、平和を愛し、
謙られた救い主キリストの姿を見る
ヨハネ1章40-42節
アンデレは、
イエス・キリストと人をつなげる”名人”であった。
私たちも”アンデレ”として、
家族を、こどもを、求める人々をキリストにお連れしたい
ヨハネ1章40-42節
アンデレは、シモン・ペテロの兄弟として、
補佐的な役割に徹した。
ペテロのような”主役”を果たした人物の陰には、
アンデレのような”脇役”を、
主が備えられたことを忘れないでいたい。
へブル12章5-13節
「信仰の訓練」は、
「神が私たちを愛されている
(私たちは、神に愛されている)」
という何よりの証拠である。
神の愛のご配剤(導き)に、
感謝しようではないか。
へブル12章3-4節
信仰が後退していると感じる時、
十字架を忍ばれたイエスを、福音書より
繰り返して学び続けることが
”疲れ果てて(倒れ込んで)”しまわない
信仰の要諦である。
へブル12章1-2節
11章に登場する信仰の諸先輩は、
信仰生活の私たちの大きな模範である。
私たちは、彼らの生涯と福音書に記録された
「人としてのイエス」を学び続け、
信仰の馳場を走り抜きたい。
ヨハネ1章29-42節
アンデレは、自らの「最大の発見」を、
自身の兄弟ペテロに真っ先に伝え走った。
私たちも、アンデレの例に倣いたい。
へブル11章39-40節
旧約(彼ら)と新約(私たち)の信仰者は、
イエス・キリストにあって一つとされ、完成に至る。
「私たち」は「彼ら」(ヘブル11章)の信仰に
大いに学ばせていただきたい。
へブル52章32-38節
信仰の行いには、”受動的な信仰”もある。
受動的な信仰をも、神は大いに喜ばれる。
へブル52章32-38節
信仰の行いには、”能動的な信仰”がある。
積極的な信仰を、神は喜ばれる。
個人伝道は、最も確実で、
かつ最も偉大な成果をもたらす伝道方法である。
利点は、「いつでも」「どこでも」「だれでも」
「どのような相手にも」できること。
へブル11章7節
約100年間に及んだであろう箱舟建造こそ、
信仰の望みと忍耐の実践例である。
一人、神への信仰に堅く立ち続ける
信仰者でありたい。
へブル11章5~6節
「エノクは、神とともに歩んだ」
この聖書の証言こそ、
エノクの365年間の信仰の歩みを現す、
最適の碑銘(epitaph)である。
へブル9章23~28節
キリストの第1回目の来臨は
十字架の死にあり、
第2回目の来臨(再臨)は
救いの完成にある
へブル9章15~22節
イエス・キリストの死の効力は
ご自身の死と血に起因する。
罪のあがないを完成するのは、
血である(レビ記17章11節
へブル9章11~14節
イエス・キリストの血潮は、
人間の罪を
①ただ一度で ②永遠に ③完全に
ゆるされる。
私たちは、この血の力に信頼すべきである。
へブル9章6~10節
年に一度の「贖罪の日」(レビ記16章)は、
キリストの贖いを示す「型」であり、不完全であった。
しかし、本体なるイエス・キリストは、罪のゆるしを、
ただ一度、ご自身の罪なき血により
完全に成し遂げられた。
へブル9章1~5節
幕屋は、イエス・キリストの影であり、
間接的には信仰生活について示唆されている。
ガラテヤ4章4~5節
”クリスマス”は、”神が人となられた日”、
また私たちの救いのために、
イエス・キリストが、
死ぬためにお生まれになった日であることを
覚えたい。
マタイ1章18~25節
ヨセフは、結婚前に聖霊により妊ったマリヤを
神の明確なご計画として、信仰により受け入れた。
ヨセフとマリヤ双方の信仰により、
キリストは救い主としておうまれになった。
「信仰は、信仰は望んでいる事がらを保証し、
目に見えないものを確信させるものです」(ヘブル書)
ヘブル書6章1~3節
人のいのちは、永遠である。
永遠のいのちか、永遠の滅びである。
イエス・キリストを信頼するだけで、
永遠のいのちを得ることが約束されている。
ヘブル書6章1~3節
信仰の成長は、神のみこころであり、喜びである。
外なる人は衰えつつあるが、
内なる人は日々新たに成長させられたい。
第1テサロニケ4章13~18節
天国は実在の場所であり、
そこでは、キリストを信仰し、
先に亡くなった方との喜ばしい再会が、
日々行われている。
へブル書5章8~14節
「みことばへの態度は、
そのまま、イエス・キリストへの態度である」
(ウォーレン・W.ウィルズビ、1929~2019)
へブル書5章2、7~8節
大祭司イエス・キリストは、
同情・あわれみ豊かなお方である。
私たちも、キリストに倣い、
神の愛を伝える器にならせていただきたい。
へブル書5章1、4~6節
偉大な大祭司イエス・キリストは、
私たちを祭司として選び、
キリストの驚くべきみわざを宣べ伝えるために
任命された。
その任務を高ぶることなく、
どこまでもへりくだり、感謝しつつ、
共に遂行していきたい。
へブル書4章14~16節
私たちは、偉大なる大祭司イエス・キリストの
恵みの御座に招かれている。
信仰故の苦難・試練時に必要なことは、
後退・撤退でなく、
イエス・キリストに向かっての前進である。
大胆に、真実に、信仰を持って、近づきたい。
へブル書4章1~13節
神の目には、すべてが裸であり、
さらけ出されている。
人は、神の前に弁明の余地はない。
神の目を意識しつつ、神の前に歩みたい。